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※回答に使用している参考資料の所蔵状況や貸出できるかどうかは、図書館ごとに異なります。所蔵状況等を確認するときは、資料名をクリックするかこちらの所蔵資料検索をご利用ください。
(2001) P30~P31、P74~P77
「地形図 千葉西部 1:25,000』国土地理院
(1932・1949・1956・1968・1970・1972・1975・1980・1983・1988)《参考資料》
千葉市郷土博物館発行の『大賀ハス』には、昭和26(1951)年3月30日、大賀一郎博士の推論のもと、現検見川東大総合運動場の地下5mの青泥層から発掘された3粒の古蓮の実のうち1粒が発芽し、翌27(1952)年7月18日に開花したことや、2000年以上もの眠りから蘇った古代蓮が、世界最古の花として米国ライフ誌にも紹介され、世界的な反響を呼んだこと等が記され、p25の「大賀ハスの分根先一覧」から、日本のみならず世界各国へも分根されたことがわかります。
また、博士は、著書である、『ハス』や『大賀一郎 ハスと共に六十年』で、発掘に至るまでの経緯などを詳細に記しています。特に『大賀一郎 ハスと共に六十年』には、千葉市立花園中学校で開催された大賀ハス発掘碑完成記念講演が掲載されており、大賀ハスの発掘について、エピソードも踏まえて語られています。『二千年の眠りから覚めて 大賀ハス開花五十周年記念誌』のp16には「花園地区と大賀ハスの年表」や、大賀博士の「大賀ハス発掘碑」除幕式での感謝のことばが掲載されています。
なお、大賀ハスは昭和29(1954)年3月31日に千葉県の天然記念物に、平成5(1993)年4月29日に市の花と制定されています。
《参考資料》
《参考資料》
千葉県千葉土木事務所が発行した『都川』に、都川水系とその流域が、地形図とともに記載されています。また、この資料には、明治14(1881)年頃と大正10(1921)年頃の都川沿川地域の様子が地形図、写真を添えて紹介されており、都川の変遷を知ることができます。
都川の歴史と、流域に住んだ人々との歴史と文化についての研究は、『改稿 都川物語(都川通信No.114)』をはじめとした『都川通信』各号で齋藤正一郎氏により詳しく述べられています。また、都川流域の自然を調べるなら『行こうさぐろう緑と水辺』や『千葉県の自然誌』、水質調査については『千葉市環境白書』等に記載があります。さらに『エコライフちば』等では環境団体による都川をきれいにするための活動が紹介されています。
《参考資料》
城郭の歴史については、『日本城郭大系6 千葉・神奈川』に築城者や築城年、場所や由来などの詳しい記述があり、多くの城跡が紹介されています。『千葉県の歴史 資料編 中世1』では、主だった城跡の場所や由来、実際の出土物や遺構の様子などが写真付きで詳しく紹介されています。『房総の古城址めぐり上巻・下巻』は、上巻に安房上総(千葉市北西部あたり)が、下巻には下総国(千葉市南部あたり)の城跡が紹介されています。これら3誌は千葉市以外の城跡についても紹介されています。
実際の出土物や遺構については、『千葉市猪鼻城跡』『千葉市生実城』などの個々の遺跡の発掘報告書に発掘の経緯とともに詳しく紹介されています。
また、『絵にみる図でよむ千葉市図誌上巻・下巻』では、城跡についての記述は多くはありませんが、掲載されている古地図の中で、城跡の位置を確認することができるものもあります。
《参考資料》
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《参考資料》
《参考資料》
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『千葉市の散歩道』(2008)によると、昭和44(1969)年3月までは、港町90番地の三叉路のところに「新川」と呼ばれる小さな溝(旧河道)があり、そこに架けられた石橋を「君待橋」といいました。そして昭和55(1980)年、その跡地に「君待橋苑」が設けられ、その北方約200mの都川に新しい「君待橋」が造られたことが分かります。『君待橋記念誌』には、時代につれて変わっていった君待橋の様子が写真とともに掲載されています。
昔の君待橋にはいくつかの伝承があり、『千葉市の民話・伝説・歴史ばなし』『千葉市風土記』や『君待橋物語のリメイク』には、
《参考資料》
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