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地域に関するレファレンス事例集

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※回答に使用している参考資料の所蔵状況や貸出できるかどうかは、図書館ごとに異なります。所蔵状況等を確認するときは、資料名をクリックするかこちらの所蔵資料検索をご利用ください。

22妙見大祭について
千葉市を代表する祭りの一つに「妙見大祭」があります。
 『千葉市史 近世近代編』、『千葉市史 現代編』、『社寺からみた千葉の歴史』では、妙見大祭は千葉神社(中央区院内1丁目)でおこなわれている祭礼だとわかります。千葉神社は、大治元(1126)年、千葉常重が大椎城から猪鼻城に移ったとき、現在の地に祀られたといわれています。明治維新の頃までは北斗山金剛授寺(妙見寺)と言われ妙見尊を祀っていました。妙見尊は、千葉氏の祖先平良文が合戦のとき祈願して戦に勝ったことから、代々千葉氏の守り神となっていました。神仏分離令が出されると千葉神社と名称を改めました。また、「妙見尊という神様は我が国にはない」と役人に指摘され、妙見尊と相通じる天地創造の神「天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)」を主祭神と定めました。千葉神社の祭礼は、大治2(1127)年から始まり、毎年7月16日から22日(明治中期からは新暦の8月16日から22日)までの7日間にわたり大祭及び神輿御事の神事がおこなわれています。『神輿図鑑4』によると、祭礼の初日、神輿は千葉駅前のメインストリートを通り、千葉県庁そばの香取神社の御旅所(御仮屋)に安置されます。最終日の22日、再び御旅所から担ぎ出された神輿は、中央区役所付近の繁華街を通って千葉神社に戻ります。また、寒川神社では毎年8月20日に妙見大祭の祭礼の一部であった「御浜下り」神事がおこなわれています。御浜下りは、神輿が町内を廻った後、海に入り海中を練り歩くというものです。この神事は、当時の寒川村の氏子たちが大漁を祈願して始まったものといわれています。海岸の埋め立てにより一時中断していましたが、平成11(1999)年からポートサイドタワー下の人工海浜で再び行われるようになりました。『房総の神輿』では、妙見大祭が通称「だらだら祭り」と呼ばれていることがわかります。由来は諸説ありますが、祭礼期間が1週間と長いこと、もしくは、先触れ太鼓二段打ちの音「だらんだらん」からきていると言われています。
 
21稲毛区黒砂あたりに川が流れていたのか知りたい
現在の稲毛区には排水路のひとつとして、「黒砂水路」があります。
『黒砂いまむかしⅠ 改訂版』によると、かつて黒砂あたりには黒砂浅間神社下から現在の稲毛区役所の裏まで谷津田(谷地にある田んぼ)が広がっていました。京葉工業高校裏にあった溜池から、谷津田に沿って「ひらめ川」という川が黒砂の海まで流れていたことがわかります。『黒砂いまむかし』には、昭和25年頃の黒砂の絵と平成15(2003)年の空中写真が対比されています。「ひらめ川」の自然地形は黒砂村と稲毛村・小中台村の境界となっています。『絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻』の黒砂の地形図や穴川野論絵図(1670年)から、当時の黒砂付近の様子を見ることができます。更に、『千葉市小中台町850番の歴史』にある「小中台町850番地小中台町公営住宅全体配置図」(昭和22年復元図)では当時の様子とともに「ひらめ川」の流れがわかります。
開発が進み、川は昭和47(1972)年に暗渠となり、現在は排水路として掘られた黒砂水路につながっています。『千葉市の水文環境』には「黒砂川」として黒砂水路の概要が紹介されています。
 
20大賀ハスは食べられますか?
食用ではありませんが、地下茎を食べることができます。『千葉が誇る日本一 PART1』の「第9回大賀ハス」で、実際にきんぴらになっている大賀ハスの地下茎写真が出ています。こちらの資料によると、味はシャキシャキではなく「粘りがあり、もっちり、ねっとりという食感」とあります。また、大賀ハス自体を食する訳ではありませんが、蓮の葉にお酒など注ぎ入れ葉茎を使って飲む「象鼻杯」が千葉市千葉公園の「大賀蓮を観る会」で行われています。「象鼻杯」は古代中国が始まりではないかとされ、『蓮への招待』によると「茎の中を酒が通る間に、微かな蓮の香りが酒に伝わり清涼感が味わえる」そうです。
 

参考ホームページ
【千葉市ホームページ/千葉市千葉公園ホームページ】
http://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/chuo-inage/chibakouen.html
19千葉常胤(つねたね)について知りたい。
千葉常胤(元永元(1118)年~建仁元(1201)年)は、源頼朝から「今日よりは御身を父と仰ぐべし」と厚い信頼を寄せられた人物です。千葉氏は、平安時代末期から戦国時代末期まで約470年にわたり下総国を中心とした地域を治め、特に、頼朝に仕えた常胤の活躍が下総千葉氏の発展のもととなったと言われています。
[千葉市立郷土博物館]研究紀要 第7号』から常胤と頼朝の関係や常胤の動向がわかります。治承4(1180)年、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房に逃れてきた際に、常胤は一早く頼朝の元に参上し、その再起に大きく貢献しました。後には上総・下総をはじめ奥州、東海、九州にまで及ぶ広大な所領を獲得し、幕府屈指の御家人に成長しました。やがてそれらの領地を6人の子どもたちに継がせ、千葉氏の基礎を固いものにしました。
千葉県の歴史 史跡と人物でつづる』からは、千葉県の歴史を通した常胤の活躍の様子がわかり、『千葉の先人たち』には常胤の生い立ちがわかりやすくまとめられています。また、『源頼朝・義経と千葉介常胤』には、常胤の坐像や武具等関連資料が紹介されています。 千葉氏についての資料や千葉市内の文化財、市の歴史等に関連する資料は、千葉市立郷土博物館で見ることができます。
 

《参考ホームページ》
【千葉市ホームページ/千葉市立郷土博物館ホームページ】
http://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/kyodo_top.html
18稲毛にあった「海気館」にどんな人が泊ったのか知りたい。
「海気館」は、海水浴や海辺の空気が健康によいという考えから、医師の浜野昇によって明治21(1888)年に「稲毛海気療養所」として現在の千葉市稲毛区に設置されました。『千葉いまむかしNo.23』によると、肺病、貧血症、重病後の快復期、転地療養を必要とする人など、いろいろな症状に効果があると新聞広告でうたっています。当時はこのような病人や健康志向の人々が訪れていたようです。しかし開所後間もなく千葉市中央区にあった加納屋旅館に営業が移り、明治24(1891)年に刊行された『千葉繁昌記』では「加納屋支店海気館」として紹介されています。
明治29(1896)年には当時官僚だった原敬(のちの第19代内閣総理大臣)が保養のため、旅館「海気館」に宿泊しています。また、明治の終わり頃に森鷗外、島崎藤村、田山花袋、昭和9年には林芙美子などといった文人墨客も訪れており、田山花袋の『』、林芙美子の『追憶』といった「海気館」の登場する作品も書かれています。
現在、「海気館」は取り壊されすでにありませんが、『江戸東京湾事典』に新しい経営者が「全面的に改修して、1965年初めまで旅館を経営した」とあり、戦後まで多くの人に利用されていたようです。
 
17最近千葉市に引っ越してきたのですが、自分の住む区のことを知りたいです。何か便利な資料はありますか。
 各区ごとに分かれて紹介されている資料の一つとして、『区ガイド』があります。折りたたみ式で、施設の案内や問い合わせ先等があり、裏面はガイドマップになっています。お住まいの区の周辺を実際に散策するなら、『健康づくり支援マップ[区版]』があります。各区のウォーキングコースが距離や時間等とともに紹介されています。また、健康課のご案内など、健康に関する情報があります。
千葉市について知るためには『千葉市勢要覧 2011』から千葉市や各区の概要がわかります。また、散策のガイドにするなら、『今週末、千葉の緑に会いたくなる本』(『今週末、千葉の海に会いたくなる本』)や『るるぶ千葉6区』等に各地域のおすすめ情報等が紹介されています。
千葉市の歴史を知るには、『絵にみる図でよむ千葉市図誌  上巻・下巻』や『千葉市の町名 [1993]』から町の成り立ち等がわかります。更に各地域の歴史としては、『メッセの町は海だった』や『海と緑の街』、『おゆみ野風土記』等から当時の様子を伺うことができます。
 

≪参考ホームページ≫
【千葉市ホームページ/健康支援課 ・健康づくり支援マップ】
http://www.city.chiba.jp/hokenfukushi/kenkou/shien/kenkoudukurisienmappu.html
16加曽利貝塚(千葉市若葉区桜木町)について知りたい。
 『加曽利貝塚 東京湾東岸の大型環状貝塚』には、「環状で直径約130mの北貝塚と、馬蹄形で長径約170mの南貝塚が連結して、特殊な「8の字」形をした国内唯一の縄文貝塚である。」とあります。北貝塚は、縄文中期から後期前半にかけて、南貝塚は縄文後期から晩期にかけて形成されたもので、北貝塚は昭和46(1971)年、南貝塚は昭和52(1977)年にそれぞれ国の史跡に指定されています。貝塚の構成物については『貝塚博物館研究資料 第5集 貝層の研究』、人骨や縄文式土器、堅穴式住居跡などの出土物については、『加曽利貝塚1 博物館調査資料№1』『加曽利貝塚2 博物館調査資料No.2』など、発掘報告書で知ることができます。
 また、史跡公園の千葉市立加曽利貝塚博物館では、実際に発掘された貝層断面と堅穴住居跡群を見学することができます。
 

《参考ホームページ》
【千葉市立加曽利貝塚博物館】
http://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/shogaigakushu/kasorikaizuka/top.html
【千葉市埋蔵文化財調査センター】
http://www17.ocn.ne.jp/~maibun/
 
15 こじま公園(美浜区高洲)にあった海洋公民館について知りたい。
 海洋公民館は、全国的に船を利用した珍しい施設として、昭和41 (1966)年5月に開館しました。『稲毛海浜ニュータウンのあゆみ』によると、「昭和40年4月に廃船となった海上保安大学の練習船「こじま」を千葉市が払い下げを受け、改装して海洋公民館として利用した」とあり、展示や施設の設備等についても紹介されています。
 施設として利用された「こじま」の経歴については、『絵にみる図でよむ千葉市図誌 上巻』に、「「こじま」は1945  (昭和20)年3月、佐世保で旧海軍の海防艦「志賀」として竣工した」とあり、戦艦として使用されていたと記述されています。更に、戦後、米軍連絡船や中央気象台定点観測船として就航するなど、戦後の活躍などがわかります。
 また、『ざ・京葉ベイエリア その変貌録』には、「こじま」の写真等が掲載されています。
 海洋公民館は、老朽化などのため平成5 (1993)年に閉館し、平成10 (1998)年3月に「こじま」は解体されました。現在、解体されたこじまの一部が稲毛記念館 (美浜区高浜) に展示されています。
 
《参考資料》
14 矢作トンネルの上にある高架水槽について知りたい。
千葉高架水槽(千葉市中央区矢作町)は、12角形で高さ30メートル、昭和12(1937)年に完成した県営上水道事業草創期の施設です。
千葉県の産業・交通遺跡』には、「旧千葉県都川給水塔」として、鉄筋コンクリート造5階建の高架水槽の4・5階に水槽があり、水圧の足りない標高の高いところへの配水のための施設とあります。
千葉県営水道史』には、県営水道発足時の詳しい状況と、創設から45年間の水道局の変遷についてまとめられています。さらに、平成15(2003)年度に社団法人 土木学会の選奨土木遺産として認定され、平成19(2007)年7月31日には国の登録有形文化財(建造物)としても登録されています。
千葉県水道局のホームページには、認定・登録についての詳しい説明があり、毎年桜の季節に、見学会が行われています。
13 千葉市の人口が知りたい。
最新の人口については、「ちば市政だより」(毎月1日号・15日号)一面の発行日の右横に、1カ月遅れの人口が記載されています。また、『千葉市町丁別人口及び世帯数』には1カ月前の人口が、『千葉市中央区町丁別年齢別人口』をはじめとした各区の『町丁別年齢別人口』では、3カ月前の人口が掲載されています。
市政を施行して「千葉市」になった大正10(1921)年1月の人口は、大正15(1926)年6月千葉市役所発行の『数字上より見たる千葉市の変遷 千葉開府八百年記念』によると、当時の人口が33,887人と記載があります。また『千葉いまむかし No.5』には、「千葉市勢一覧(大正10年5月市制施行祝賀式記念発行)」が掲載されていて、人口のほか、高等女学校の生徒数などから当時の様子がわかります。
最新の人口を知るには、「ちば市政だより」(1日版・15日版)があり、発行日の右側に、1ヶ月遅れの人口が記載されています。
なお千葉市統計課トップページから千葉市の推計人口、町丁別人口、年齢別人口がご覧になれます。
 

《参考資料》

 
《参考ホームページ》
【千葉市ホームページ/統計課】
【千葉県ホームページ/統計情報の広場(千葉県の統計情報)】
12 大賀ハスを発見したときの資料を探しています。
大賀ハスは、千葉市の花として親しまれています。
千葉市郷土博物館発行の『大賀ハス』には、昭和26(1951)年3月30日、大賀一郎博士の推論のもと、現検見川東大総合運動場の地下5mの青泥層から発掘された3粒の古蓮の実のうち1粒が発芽し、翌27(1952)年7月18日に開花したことや、2000年以上もの眠りから蘇った古代蓮が、世界最古の花として米国ライフ誌にも紹介され、世界的な反響を呼んだこと等が記され、p25の「大賀ハスの分根先一覧」から、日本のみならず世界各国へも分根されたことがわかります。
また、博士は、著書である、『ハス』や『大賀一郎 ハスと共に六十年』で、発掘に至るまでの経緯などを詳細に記しています。特に『大賀一郎 ハスと共に六十年』には、千葉市立花園中学校で開催された大賀ハス発掘碑完成記念講演が掲載されており、大賀ハスの発掘について、エピソードも踏まえて語られています。『二千年の眠りから覚めて 大賀ハス開花五十周年記念誌』のp16には「花園地区と大賀ハスの年表」や、大賀博士の「大賀ハス発掘碑」除幕式での感謝のことばが掲載されています。
なお、大賀ハスは昭和29(1954)年3月31日に千葉県の天然記念物に、平成5(1993)年4月29日に市の花と制定されています。
 

《参考資料》

 
《参考ホームページ》
【千葉市ホームページ/千葉市のプロフィール>市の花オオガハス】
http://www.city.chiba.jp/shimin/shimin/kohokocho/prfindex.html#hana
【千葉県ホームページ/千葉市の国・県指定および国登録文化財>千葉市の記念物>検見川の大賀蓮】
http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p431-033.html
11 江戸時代、印旛沼の水を、花見川から東京湾へ流す掘割工事があったというが、どのような工事だったのか。
印旛沼開発史』をはじめ、『千葉市史 第2巻(近世近代編)』や、『人づくり風土記12千葉』等に、「印旛沼の堀割工事は、享保、天明、天保と江戸時代に3回にわたって行われたが、いずれも途中で中止され失敗に終わった」ことが記されています。
なかでも天保の工事は、幕府が沼津藩をはじめ担当区を五つの藩に分けて行わせた工事で、『千葉市史 第2巻(近世近代編)』や『千葉いまむかしNo.4』に、鳥取藩に割り当てられた区(柏井村~天戸村)が、花島村地内の泥土層のため難工事になったことが記載されています。 なお、『千葉いまむかし』の『No.4』、『No.6』、『No.10』には、鳥取藩・庄内藩・沼津藩・秋月藩の天保期の工事についての論文が収録されています(下記参考資料参照)。
この工事は、明治以降も試みられ、『人づくり風土記12 千葉』には、「昭和40年代に完成し、東京湾に1本の川として流れるようになり、上流を新川(八千代市)、下流を花見川と呼んでいる」という記述があります。
 

《参考資料》

10 都川について調べたい。

千葉県千葉土木事務所が発行した『都川』に、都川水系とその流域が、地形図とともに記載されています。また、この資料には、明治14(1881)年頃と大正10(1921)年頃の都川沿川地域の様子が地形図、写真を添えて紹介されており、都川の変遷を知ることができます。
都川の歴史と、流域に住んだ人々との歴史と文化についての研究は、『改稿 都川物語(都川通信No.114)』をはじめとした『都川通信』各号で齋藤正一郎氏により詳しく述べられています。また、都川流域の自然を調べるなら『行こうさぐろう緑と水辺』や『千葉県の自然誌』、水質調査については『千葉市環境白書』等に記載があります。さらに『エコライフちば』等では環境団体による都川をきれいにするための活動が紹介されています。

《参考資料》

 
《参考ホームページ》
【千葉市ホームページ/都川水の里公園のホームページ】
9 千葉市にあった城などについて調べたい

城郭の歴史については、『日本城郭大系6 千葉・神奈川』に築城者や築城年、場所や由来などの詳しい記述があり、多くの城跡が紹介されています。『千葉県の歴史 資料編 中世1』では、主だった城跡の場所や由来、実際の出土物や遺構の様子などが写真付きで詳しく紹介されています。『房総の古城址めぐり上巻・下巻』は、上巻に安房上総(千葉市北西部あたり)が、下巻には下総国(千葉市南部あたり)の城跡が紹介されています。これら3誌は千葉市以外の城跡についても紹介されています。
実際の出土物や遺構については、『千葉市猪鼻城跡』『千葉市生実城』などの個々の遺跡の発掘報告書に発掘の経緯とともに詳しく紹介されています。
また、『絵にみる図でよむ千葉市図誌上巻・下巻』では、城跡についての記述は多くはありませんが、掲載されている古地図の中で、城跡の位置を確認することができるものもあります。

《参考資料》

8 「絶滅危惧種」について調べたい。特に千葉県内の絶滅危惧種に関する資料はありますか。
絶滅危惧種とは環境変化や乱獲などが原因で、すでに絶滅した、または絶滅寸前になっている動物や植物の種のことをいい、環境省ではレッドリスト(日本の絶滅のおそれのある野生生物の種のリスト)を作成・公表するとともに、これを基にしたレッドデータブック(日本の絶滅のおそれのある野生生物の種についてそれらの生息状況等を取りまとめたもの)を刊行しています。
国内のレッドデータブックやリストは都道府県等の団体でも作成しており、千葉県、千葉市からも下記のような資料が刊行されています。
なお、千葉県レッドデータブック・レッドリストは、千葉県環境生活部自然保護課自然環境規格室の生物多様性センターホームページにある「絶滅危惧種の保護」から、また千葉市レッドリストは、千葉市環境保全部ホームページからダウンロードすることができます。
 

《参考資料》

 
《参考ホームページ》
【千葉県ホームページ/生物多様性センター(千葉県立中央博物館内)】
【千葉市環境保全部ホームページ】
7 子どものころ(戦前)に稲毛あたりの海岸で潮干狩りをした記憶があるが、その頃の稲毛海岸の写真など が紹介されている本がみたい。
市民フォトちば 2003 秋号』に「かつての海の保養地 稲毛の歴史を探る」が特集されており、戦前の稲毛海岸の風景や潮干狩りの写真が掲載されています。海と緑の街 写真で見る 千葉海浜埋立地の変貌/稿本』では、稲毛海岸の風景を写した大正期~昭和初期の絵葉書が紹介されています。
また、稲毛海岸以外では、『メッセの町は海だった 』や『千葉市制施行70周年』、『写真集 明治大正昭和 千葉』に、幕張や出洲海岸の戦前の海岸風景の写真が掲載されています。
 

《参考資料》

6 御成街道について調べたい。
東金御成街道を探る』では、御成街道は、「(徳川)家康の東金辺での鷹狩りが計画され、急遽、沿道の村々の農民を総動員して短期間で造り上げた道」であり、「船橋から東金まで約37kmにわたり、ほぼ直線で結ばれ」ていると解説されています(p1)。
房総の道 東金御成街道』のp24-26には、「この道の造成に当っては、所々にあった大木に昼は白旗を、夜は提灯を掲げて突貫工事をしたとか、一夜で完成したとか、「三日三晩」で造成したという伝承が残っており、別名を「提灯街道」、「一夜街道」「権現道」とも呼ばれている」という記述があります。
また、『カルチャー千葉 第46号』p26のコラム「千葉市地名辞典」で、御成台や御殿町など、この御成街道にちなんだ地名が紹介されています。
また、この街道沿いには、家康の休憩・宿泊施設も建設されました。その一つに御茶屋御殿(おちゃやごてん)の遺跡があり、その様子は『お成り街道 家康鷹狩り道』や、『千葉市の散歩道』等に紹介されています。
 

《参考資料》

5 千葉市の社寺、仏像について調べたい。
社寺よりみた千葉の歴史』には、千葉神社を始め、千葉市内の神社・寺・仏像に関する記述があります。またそれにまつわる歴史についても述べられています。
千葉市内仏像彫刻所在調査報告』は、昭和63(1988)年度からの3年間に市が行った仏像彫刻所在調査の記録をまとめたものです。この調査を踏まえて編纂された『千葉市の仏像』には、千葉市内に所在する仏像彫刻のうち、歴史・文化及び美術的見地から重要と判断されたものについての写真図版や、詳細な解説が記載されています。
また、『全国寺院名鑑 千葉県版』では、県内の寺院名簿と著名寺院の本尊、由緒等が、『千葉県神社名鑑』では県内の神社とその祭神、由緒等がまとめられています。
その他、市内各地の石造文化財についての資料には、『千葉市文化財調査報告書 第5集 路傍の石仏』があります。『千葉市史』、『千葉市風土記』にも、千葉の社寺・仏像についての記述が含まれています。
千葉市美術館で行われた、千葉県内の様々な時代の仏像を集めた展示会の図録、『房総の神と仏』と『仏像半島 房総の美しき仏たち』では、カラー写真でそれぞれの仏像が紹介されています。
 

《参考資料》

4 千葉を襲った地震・台風など自然災害について知りたい(昭和まで)
千葉県の自然誌 本編2 千葉県の大地』のほか、『検証・房総の地震』や『地震と房総』には、過去に発生した地震の記録や、千葉県を襲う地震のメカニズムについて述べられています。
また、千葉県における台風災害については、『千葉県の自然誌 本編3 千葉県の気候・気象』に記述があります。より古い時代のことについて知りたい時は、『千葉県気象災害史』を見ると、日本書紀、江戸時代の日記等の古文書や、千葉県史などにみられる、千葉県内の自然災害に関する記述が昭和30年代まで抽出されています。『千葉県気象災害史(第2集)』は、昭和44(1969)年~昭和60(1985)年までの千葉県に関する自然災害について述べられています。
また、『房総災害史 郷土研叢書4』や『房総沖巨大地震 元禄地震と大津波』は、元禄の大地震と津波についての論考をまとめたものです。
ほかに、『防災誌 元禄地震』『防災誌 関東大震災』『防災誌 風水害との闘い』では、災害当時の写真や記録から被災状況を知ることができます。
 

《参考資料》

3 君待橋の由来について知りたい。

千葉市の散歩道』(2008)によると、昭和44(1969)年3月までは、港町90番地の三叉路のところに「新川」と呼ばれる小さな溝(旧河道)があり、そこに架けられた石橋を「君待橋」といいました。そして昭和55(1980)年、その跡地に「君待橋苑」が設けられ、その北方約200mの都川に新しい「君待橋」が造られたことが分かります。『君待橋記念誌』には、時代につれて変わっていった君待橋の様子が写真とともに掲載されています。
昔の君待橋にはいくつかの伝承があり、『千葉市の民話・伝説・歴史ばなし』『千葉市風土記』や『君待橋物語のリメイク』には、

①乙女が若者の後を追い濁流に身を投じたという、はかなくも悲しい物語。
②在原業平と並ぶ、歌人の藤原実方が奥州へ下向する時(955年)に、ここを通りかかり歌を詠んだ。
「寒川や 袖師が浦に 立つ煙 君を待つ橋 身にぞ知らるる」
③千葉常胤が、源頼朝をこの橋のたもとで出迎えた時(1180年)、六男の東六郎胤頼が歌を詠んだ。
「見えかくれ 八重の潮路を 待つ橋や 渡りもあへず 帰る舟人」
という橋の名称に関する3つの伝承が紹介されています。
 

《参考資料》

2 千葉市の鉄道第一連隊について知りたい。
写真集 千葉市のあゆみ』、『写真集 明治大正昭和 千葉』、『絵にみる図でよむ千葉市図誌 上巻』、『千葉いまむかし No.3』に、「鉄道連隊の主な任務は、戦地では鉄道の建設・修理・兵員や物資を輸送・敵の鉄道の破壊等であり、平時は千葉市とその周辺で訓練をした。東京の中野にあった鉄道大隊が拡充し、1907(明治40)に一二個中隊からなる鉄道連隊に昇格、第一・第二大隊と材料廠の主力が千葉に移転し大正7年に鉄道第一連隊となった」という内容の記述があります。『回顧四十年[復刻]』は、昭和11(1936)年の千葉の鉄道隊40年記念祭に発刊された資料の復刻版で、鉄道連隊に在職していた隊員たちによる貴重な回顧録です。
なお、鉄道連隊の鉄道線路跡(軽便鉄道線路跡)については、『よつかど No.1』に写真とともに詳しく掲載されています。
 

《参考資料》

1 千葉県内の企業の資本金や業績等について調べたい。
千葉県内の企業情報については、下記の資料に掲載されています。
東商信用録 千葉県版』と、『帝国データバンク会社年鑑 東日本』には企業の資本金・業績・役員名等が載っています。
 

《参考資料》

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